物語における特異点
大昔に書いたマンガ論みたいなものをたまたま発掘したので再掲しておこう。基本的に、僕の物語の読み方はこれがベースになっている。
まずジョーカーを定義しておくが、ジョーカーとは「絶対者」の意だ。マンガにおける絶対者とは、そのマンガでメタな視点に立っている者。または作品中における重要なパラメーターが登場人物中で最も高く、主人公には越えられない者、とオレは考えている。
まず仮説を一つたててみる。「ジョーカーの存在するマンガは予定調和である」 予定調和のマンガは、終わり方がある程度予想がつく。ともするとありふれた物語の組み合わせになってしまうので、作者の作劇能力、構成力が物を言う。一般的なストーリーマンガは大抵これだ。そしてジョーカーの役割は、その予定調和へ主人公を導くことだ。
まず、オレがジョーカー説を発見した少女マンガ全般を見ると判るが、あの手の恋愛が主体のマンガは基本的に予定調和だ。波瀾万丈があろうとも最後に2人は結ばれる。そうでなければ、あの年頃の女の子の支持は得られない。ヒットした少女マンガで最後に別れたというのはほとんど存在しないはず。それどころか少女マンガでは結構タブーのようで、青年誌かレディースコミックにしか存在しないようだ。ジョーカーはそのストーリー中での羅針盤の役目で、主人公の恋愛には直接から関わらないことが多い。恋愛物の場合、ジョーカーといっても、ちょっと人生経験積んでいるとか、主人公が得意な物の先生(または、もっとうまい人)程度の物が多く、読者の視点(メタの視点)の代弁者である事も多い。
恋愛モノではないが、バナナフィッシュもそうだ。あれの二つの主題、アッシュとエイジの関係と、バナナフィッシュ事件。基本的に二つともハッピーにしてもアンハッピーにしても、きちんと終わり方が見えるものだから予定調和である。またジョーカーであるブランカは戦闘に置いてほぼ全てでアッシュを上回っており、全ての事情を知っている点でメタな視点にも立てる。条件さえ整えばアッシュも勝つことが出来るが、大抵の場合はブランカの方が上だし、作品中でもそういう書き方をしている。
では、予定調和でない物語、つまり破綻系のマンガについてはどうだろうか? ここで言う破綻系とは、単純に終わりの見えないマンガのことだ。大風呂敷を広げてしまい、ありふれた展開や終わらせ方だと、ただの駄作になってしまう危険性を秘めたマンガ。
先の仮説を裏返すと「破綻系のマンガにはジョーカーは存在しない」という仮説が出てくる。
ここで例題としてベルセルクを取り上げてみる。オレは、ベルセルクは破綻系のマンガだと思っているので、それを証明してみよう。 ベルセルクの中でジョーカーとなりうるのは、髑髏の騎士と、グリフィスを含む5人組の二組だけ。まず、髑髏の騎士がジョーカーであり得るかどうかだが、実は難しい。確かに物語の現時点では全てにおいてガッツを上回っている。しかし、ガッツが上回る可能性が作品中に示されているからだ。髑髏の騎士は不死のゾッドと強さにおいて互角だが、物語の展開上ガッツはいつかゾッドには勝つ事が予測できる。それはベルセルクでもっとも重要なパラメータである「強さ」において、ガッツが上回るということだ。だから、髑髏の騎士はジョーカーではあり得ない。
では、グリフィスはどうか。グリフィスはジョーカー足り得る。しかし、岡田斗司夫が言ったとおり数字系ではなく根性系のヒーロー者であるベルセルクでは、ガッツが勝つ可能性も残されている。また、あの幻のコミックス未収録の回からも判るが、グリフィスはもう一人の主人公でもある。主人公が2人いて、しかも2人ともがジョーカーの可能性がある。この構成は、不動明と飛鳥了の関係とまったく同じだ。つまり、完全に破綻系の代表のデビルマンである同一であり、ベルセルクは破綻系と言える。
もう一例としてARMSは、ジョーカーが存在せず(いても機能せず)、また登場人物が皆迷える子ヒツジ状態なので、これも破綻系に分類できる。
ここで一つ疑問が生まれる。では、もしたった一人の主人公自身がジョーカーに、つまり作品中で絶対者になってしまったらどうなるのだろうか?そうなったら、もう物語は進まない。つまり名作、傑作にするには物語を終わらせるためには主人公を殺すしかなく、どちらにしてもマンガとしてはそこで完結してまうのだ。
バナナフィッシュを見てみよう。最後に全ての敵を倒し、ジョーカーであるブランカもカリブに帰ってしまった。その時点でアッシュは絶対者になってしまった。もうストーリー的には終わろうとしており、そのままでは「みんな解決してハッピー」というありがちな大団円になってしまう。そのままでも作品としては充分面白いが、吉田秋生はそうせず主人公を殺すことで、あえて傑作にしたのだ。
寄生獣ではどうだろうか。寄生獣と人間の融合体の新一とミギーは、後藤にも勝ったため生物として最強の絶対者になってしまった。ここで、バナナフィッシュと同じジレンマに陥り、岩明均はミギーを眠らせること(殺すこと)でしか物語を終わらせることが出来なくなったのだ。
つまり、ジョーカーの存在した予定調和の物語であるバナナフィッシュと、ジョーカーの存在しない破綻系の寄生獣は、計らずしも主人公をジョーカーにしてしまったため同じ様な終わり方をせざる得なかったのだ。
ここまでいえば判ると思うがドラゴンボールや遊幽白書は、そのジレンマに陥りながら編集サイドの都合で引き延ばして不幸になった好例だ。
では例外はないのだろうか? 実はそういうマンガも特殊例としてある。一つは本宮ひろしをはじめとする不良系マンガと、ファイブスターストーリーズなどのオタク系だ。
不良系は、基本的に「ビッグになりたい」という願望達成マンガなので、主人公があるジョーカー絶対者でないと話が進まない。「実はオレは…」とかのご都合主義で話しが進んでいく典型でもある。また、オタク系はホントに例外だ。思考実験や、シミュレーションだったり、あらかじめ年表というワクを決めていたりするなど、実験マンガと言える物が多いからだ。そして両者とも、いわゆる少年少女マンガではあり得ないのだ。