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2005年10月30日

物語における特異点

大昔に書いたマンガ論みたいなものをたまたま発掘したので再掲しておこう。基本的に、僕の物語の読み方はこれがベースになっている。

 まずジョーカーを定義しておくが、ジョーカーとは「絶対者」の意だ。マンガにおける絶対者とは、そのマンガでメタな視点に立っている者。または作品中における重要なパラメーターが登場人物中で最も高く、主人公には越えられない者、とオレは考えている。

 まず仮説を一つたててみる。「ジョーカーの存在するマンガは予定調和である」 予定調和のマンガは、終わり方がある程度予想がつく。ともするとありふれた物語の組み合わせになってしまうので、作者の作劇能力、構成力が物を言う。一般的なストーリーマンガは大抵これだ。そしてジョーカーの役割は、その予定調和へ主人公を導くことだ。

 まず、オレがジョーカー説を発見した少女マンガ全般を見ると判るが、あの手の恋愛が主体のマンガは基本的に予定調和だ。波瀾万丈があろうとも最後に2人は結ばれる。そうでなければ、あの年頃の女の子の支持は得られない。ヒットした少女マンガで最後に別れたというのはほとんど存在しないはず。それどころか少女マンガでは結構タブーのようで、青年誌かレディースコミックにしか存在しないようだ。ジョーカーはそのストーリー中での羅針盤の役目で、主人公の恋愛には直接から関わらないことが多い。恋愛物の場合、ジョーカーといっても、ちょっと人生経験積んでいるとか、主人公が得意な物の先生(または、もっとうまい人)程度の物が多く、読者の視点(メタの視点)の代弁者である事も多い。

 恋愛モノではないが、バナナフィッシュもそうだ。あれの二つの主題、アッシュとエイジの関係と、バナナフィッシュ事件。基本的に二つともハッピーにしてもアンハッピーにしても、きちんと終わり方が見えるものだから予定調和である。またジョーカーであるブランカは戦闘に置いてほぼ全てでアッシュを上回っており、全ての事情を知っている点でメタな視点にも立てる。条件さえ整えばアッシュも勝つことが出来るが、大抵の場合はブランカの方が上だし、作品中でもそういう書き方をしている。

 では、予定調和でない物語、つまり破綻系のマンガについてはどうだろうか? ここで言う破綻系とは、単純に終わりの見えないマンガのことだ。大風呂敷を広げてしまい、ありふれた展開や終わらせ方だと、ただの駄作になってしまう危険性を秘めたマンガ。

 先の仮説を裏返すと「破綻系のマンガにはジョーカーは存在しない」という仮説が出てくる。

 ここで例題としてベルセルクを取り上げてみる。オレは、ベルセルクは破綻系のマンガだと思っているので、それを証明してみよう。 ベルセルクの中でジョーカーとなりうるのは、髑髏の騎士と、グリフィスを含む5人組の二組だけ。まず、髑髏の騎士がジョーカーであり得るかどうかだが、実は難しい。確かに物語の現時点では全てにおいてガッツを上回っている。しかし、ガッツが上回る可能性が作品中に示されているからだ。髑髏の騎士は不死のゾッドと強さにおいて互角だが、物語の展開上ガッツはいつかゾッドには勝つ事が予測できる。それはベルセルクでもっとも重要なパラメータである「強さ」において、ガッツが上回るということだ。だから、髑髏の騎士はジョーカーではあり得ない。

 では、グリフィスはどうか。グリフィスはジョーカー足り得る。しかし、岡田斗司夫が言ったとおり数字系ではなく根性系のヒーロー者であるベルセルクでは、ガッツが勝つ可能性も残されている。また、あの幻のコミックス未収録の回からも判るが、グリフィスはもう一人の主人公でもある。主人公が2人いて、しかも2人ともがジョーカーの可能性がある。この構成は、不動明と飛鳥了の関係とまったく同じだ。つまり、完全に破綻系の代表のデビルマンである同一であり、ベルセルクは破綻系と言える。

 もう一例としてARMSは、ジョーカーが存在せず(いても機能せず)、また登場人物が皆迷える子ヒツジ状態なので、これも破綻系に分類できる。

 ここで一つ疑問が生まれる。では、もしたった一人の主人公自身がジョーカーに、つまり作品中で絶対者になってしまったらどうなるのだろうか?そうなったら、もう物語は進まない。つまり名作、傑作にするには物語を終わらせるためには主人公を殺すしかなく、どちらにしてもマンガとしてはそこで完結してまうのだ。

 バナナフィッシュを見てみよう。最後に全ての敵を倒し、ジョーカーであるブランカもカリブに帰ってしまった。その時点でアッシュは絶対者になってしまった。もうストーリー的には終わろうとしており、そのままでは「みんな解決してハッピー」というありがちな大団円になってしまう。そのままでも作品としては充分面白いが、吉田秋生はそうせず主人公を殺すことで、あえて傑作にしたのだ。

 寄生獣ではどうだろうか。寄生獣と人間の融合体の新一とミギーは、後藤にも勝ったため生物として最強の絶対者になってしまった。ここで、バナナフィッシュと同じジレンマに陥り、岩明均はミギーを眠らせること(殺すこと)でしか物語を終わらせることが出来なくなったのだ。

 つまり、ジョーカーの存在した予定調和の物語であるバナナフィッシュと、ジョーカーの存在しない破綻系の寄生獣は、計らずしも主人公をジョーカーにしてしまったため同じ様な終わり方をせざる得なかったのだ。

 ここまでいえば判ると思うがドラゴンボールや遊幽白書は、そのジレンマに陥りながら編集サイドの都合で引き延ばして不幸になった好例だ。

 では例外はないのだろうか? 実はそういうマンガも特殊例としてある。一つは本宮ひろしをはじめとする不良系マンガと、ファイブスターストーリーズなどのオタク系だ。

 不良系は、基本的に「ビッグになりたい」という願望達成マンガなので、主人公があるジョーカー絶対者でないと話が進まない。「実はオレは…」とかのご都合主義で話しが進んでいく典型でもある。また、オタク系はホントに例外だ。思考実験や、シミュレーションだったり、あらかじめ年表というワクを決めていたりするなど、実験マンガと言える物が多いからだ。そして両者とも、いわゆる少年少女マンガではあり得ないのだ。

2005年10月29日

ロングテール再考の前に

ロングテール見直し論が一部で出始めた。その中でもFPNの徳力さんによる「Amazonのロングテールの尻尾は思ったより長くないらしい」 (ネットコミュニケーションの視点)を読んで気になった点を1つ取り上げておこう。

あらかじめ記しておくと、ロングテール見直し自体には賛成だ。一時期は、かつてのニューエコノミーのように、ロングテール万能論になりかけていた。そのことを差し引いたとしても、ロングテール効果は実感としてはちょっと大げさに感じるからだ。

オンラインショップがいくらコストを削減できるからといって、それは実店舗と比べると有利ということであって、決してゼロにはならない。しかし、オンラインショップが持つ潜在顧客数の多さと、それをすくい上げるのに必要なコストの低さは、実店舗ではとうてい得られないものだ。これこそがロングテールだ。

そして、今まさに議論となっているのは、このロングテールのしっぽの長さがいかほどのものかということである。

では、この議論において私が気になる点は、先に挙げた記事において日米のアマゾンを切り分けずに議論してしまっているところだ。アマゾンは、まさしくオンラインショップの代表的な店舗だ。だがアマゾンは、ユーザーに対してただの小売り業を越える機能を提供している。その機能とは「複雑で膨大な書籍流通をデータベースと検索技術で覆い隠す」ことだ。そしてこの技術がロングテールを生み出していると思われていた。

しかし、日本においては若干事情が異なる。「複雑で膨大な書籍流通」を「覆い隠」しているのは検索技術だけでなく、トーハンや日販といった書籍取次の役割が大きい。つまりアマゾンが肩代わりしているのは、半分だけなのだ。外資というある意味特権を利用して、取り次ぎとの取引を有利に進めている面はあるが、取り次ぎにできないことは基本的にアマゾンにもできない(実際のところ、最近は版元との直取引を始めたり、オンデマンド出版を始めたり、とただの書店を越えた動きは増えつつあるので、一概には言えなくなってきたが、今のところは無視できるレベルだ)。

つまりアマゾンは通常の書店と同様に消費者と取次の間に挟まる一枚のレイヤーに過ぎない。

アマゾンのメリットである「ウェブ通販」「データベース」「検索」「その場で注文」だけど、アメリカの場合はこれだけでいい。基本的に書店は出版社と直取引だし、新刊のデータもアマゾンくらいの大規模書店になると、版元から直接に集まるようになっている。日本においても同様のことは、一部の出版社との間で個別に契約を結んで行っている。ただし、規模の大きな版元に限られている。だが、大部分の中小規模の版元は、従来通り取次を経由するしかない。したがって、取次に口座を持っていない出版社は、アマゾンに商品を卸すことはできないし、取次に在庫のない書籍や取り扱っていない書籍は書店は売ることが難しい。

さて、勘のいい人はここで気がつくだろう。書店という業態におけるロングテール、つまりシッポは実は2本あるということに。シッポの1本は版元側のインターフェイスで、もう1本は消費者側だ。

2000年からこっち、出版業界の斜陽が叫ばれて久しく、業界全体の売り上げは減少傾向にあり、同時に書店の数も減り続けている。しかし、出版社の数は逆に増え続けているのだ。このご時世になぜという疑問はつきないが、まあそういう業界なのだ。

で、もう少し出版業界の話を続ける。出版社が本を作ると、基本的にすべての本は一度取り次ぎという問屋を経由してから書店に並べられる。この取り次ぎを中心として日本全国津々浦々に及ぶ配本システムによって、日本の出版業界は支えられているのだ。

しかも、再販制度というもののおかげで、さらに問題は複雑になっているが、それはほかにいろいろと本やらブログがあるのでそちらに譲る。

ここで押さえておくべきは、ロングテールのシッポの1本は未だに伸びているということだ。すなわち、複雑さが増しているということ。これではますますリアル書店にとってはコストが増すばかり。

ふう。ここまで書いておいてなんだが、思ったより日本の出版業界におけるロングテールの分析は大事だ。その「大事」ゆえに、日本でしかもアマゾンに関してロングテールというのは簡単ではないぞ、ということを書きたかったのだが、問題はかなり複雑で、出版業界の構造問題を抜かしては語れないということを再確認しただけになってしまった。

というわけで、この問題はもう少し考えてから、またまとめなおしたい。

Google Talk、MSN Messenger 7.5、cybozu.net

googleがメッセンジャークライアントを公開したら、直後にMSNが7.5をリリース。いろいろ遊んでいるうちに、cybozu.netの招待状が届いたので、さっそくサインアップ。
google talkはシンプルな画面デザインと、GMailとの連動がうれしいところ。あと、MSN Messengerよりもだいぶ動作が軽い。欠点は、まだ英語版だけしかないところと、微妙にUIが使いづらいところかな。
MSNの方は、サインイン画面が変わったり、ボイスメモが追加されたりとかあるけど、今のところたいした大きく変わった印象はない。
さて、cybozu.netはどうかな。ブログはTypePadベースなので、それなりだろうけど、RSSリーダの方は未知数だ。普段、 Bloglinesを使っている身としては、それ以上の使い勝手じゃないとおいそれと乗り換える気にはならないのだけど。
とりあえず登録用のブックマークレットは、はやく用意して欲しいところ。

2005年10月04日

StyleCatcher

StyleCatcherを試してみた。MTのプラグインのひとつで、テーマの入れ替えを自動でやってくれる便利なヤツだ。てことで、とりあえずテストしてるんだが、テーマファイルの保存ディレクトリの指定が上手くいかんなぁ。

いろいろとテストをした結果、StyleCatcherの初期設定で、取得したテーマファイルを保存するディレクトリの指定をミスっていただけだと判明。

なんつーか、こういうときにUNIXとWindowsのディレクトリ概念のビミョーな違いに辟易する。まあ、どっちがどうだってわけじゃないけどね。エイリアスやシンボリックリンクを自由に使えるUNIXも便利だし、その辺を省いてショートカットくらいしか使えなくしてわかりやすさにこだわったWindowsにも理はあるし。ただUNIXカルチャーのアプリケーションをWindows上で運用すると、混乱するってだけのこと。

で、肝心のStyleCatcherだが、米Sixapartのテーマディレクトリから3.2対応のファイルを引っ張ってきたものの、実際に適用すると美味く表示されない。3.2のデフォルトは、2カラムで右にサイドバーが来るのだけど、別のテーマを適応すると、サイドバーがきちんと右に来ないで、メインカラムの下に流れてしまう。

サクッとCSSなりテンプレートをいじればいいのだけど、それができずにCSSをきちんと理解していないのがばれてしまう。つーか、サイドバーのレイアウトって、いまだにいまいち理解できずにいる。float使うのは良くないの?やっぱり。