B.M.F.Diary

Think and Feel. Future is mine.

■2002-07-13(土) [長年日記]

日記

それにしても空が青い

眠気に耐えきれず、できあがった原稿をサーバーに放り込むと、また仮眠。といいつつ6時間ほど熟睡。

昼間からは再び取材。体の方は、なんかもうドロドロの状態で、休み休みで歩き回る。晩飯はヒレカツ定食。

なんだかんだで結局いつもより早めに取材終了。でも、いろいろと余計なこと書いているうちに時間が経って、いつも通りのペースで徹夜作業に入る。

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右の写真も、一昨日の写真EXILIMで撮影したもの。こういうスナップならきれいに撮れるんだけどなぁ。

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佐倉統『遺伝子VSミーム 教育・環境・民族対立』(廣済堂出版)は、まだ読んでいる途中なので、わかるところだけつらつらと。>M原

まずイスラムに関する批判のくだりだが、ミームから離れたところから語ったとしても、ある価値観を違う価値観から批判したところで何の解決にもならないのだから、それは確かに佐倉の勇み足だと思う。この点では確かに立脚点を間違えている。ジーン・ミームのアナロジーで語るならば、多様性を旨としなければならないはずで、単純にイスラム批判をしてしまっては元も子もないからな。

岡田斗司夫と岸田秀の関係だが、『30独身女、どうよ!?』では岸田秀の「人間は本能の壊れた動物だ」という言葉を引いてきているので、そのあたりの岸田の言っていることは、岡田も知っているんじゃないかな。ついでに思い出したが、オフ会で岡田が言っていたが、ミームがいつ生まれたのは人が言語を獲得してからではないかともいっていた(岡田は決してミームとはいわなかったけど)。岡田は、ああやって執筆活動を行なったり、オフ会やって議論するのも、その場で提出された疑問をきれいに説明することが快感だとも言っていた。自分にとって何の利益も発生しないけど、きれいに説明できてうれしい、ということらしい。

言葉といえば、子供の遊びだって言葉以外では定義も伝達もできないんじゃないか? 非言語的な要素であっても、文化の伝達には言語は必須だと思う。確かにドーキンスの書き方は音声・文字言語にこだわりすぎている嫌いはある。でも、その辺は程度の問題かと。言語学的にはどうだか知らんが「ボディランゲージ」だってれっきとした「言語」だし。それに、ミームを「文化の基本単位」とするならば、海水で芋を洗うサルだって文化を持っているわけだから、サルにだってミームが存在することになる訳だし。

一番気になったのは「アレでオウムを防げたか?」というところ。一見説得力のある言葉だが、ちょっと待ってくれ。確かにオウムはショッキングな事件だし予防的な処置は必要だろうが、社会に多様性を求める以上、確率的にああいった「事象」は起こり得るのではないか。つまり、どんなに医療が発達したところで「病気」が絶対になくならないのと一緒だと思う。どんな社会的な指針や提言だって、それがもし浸透したところでそれに対する反発は起きるし、そこから外れた人達が危険な集団化しないとは言えない。できることは、なるべく多くの社会の構成要員に対するストレスを減らす方向に社会システムを変化させることと、そのシステムからこぼれる人間をできるだけケアする二次的なシステムを作ること。その意味では社会は「発展」はしても「進化」も「進歩」もしないんだぞ。

そして、その際に「センス・オブ・ワンダー」と「第3の文化」は重要な視点にならないかな? わかりにくいのでオレなりの言葉に言い換えると「センス・オブ・ワンダー」は「あきらめ」、「第3の文化」は「多様性」と言える。「あきらめ」というのは限界を知ると言うこと。どんなにがんばったところで自然法則を変えることはできないのだから、その変えうることのできる範疇をきちんと知るということだと思っている。だから、その変えうる範疇を手探りで探すための活動である科学はより重要だ。「多様性」の方は言うまでもないよな。危険な意見、間違った意見もあるが、それを危険だから、間違いだからという理由で隠蔽してしまうのではなく、それらできるだけ多くの人が危険、間違いだと判断できるような教育・啓蒙を行なうのが理想的だろう。

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