■第50話 1999/12/14 行為の事後不成立性に関する選択問題 ある行為を為した場合の結果と、為さなかった場合の結果が、事前に予測された確率に置いて同率である場合、その行為を為さざる得なくても良い選択を得てして人は取りうる。だが、結果の予測に対して、自らの負担が軽微な選択を肯定するベクトルで、心理的な圧力が高頻度で働くことは決して否めないため、予測された結果を大きく覆す結果が生じた場合の心理的緊張度は著しいものになる。かのような状況に陥った場合、対象者が取りうる行動は大意に置いて二つの選択肢に分別できる。一つは、その事象に関しての予測を開始した時点から結果が生じるまでの時系列を記憶野より抹消する。もう一つは、あくまでも当初の予測を肯定するために、予測通りの結果をねつ造しようとする。だが、どちらに置いてもさらに過度の心理的緊張が生じるのは自明である。
P.S いやね、あるモノを予約しなかったために買い逃したのが、あんまり悔しかったモンだから。
■第49話 1999/11/23 雑記 このところ土曜日から日曜日にかけての徹夜仕事が体に染み付いて、せっかくの休みだというのに日が出ている間は目が覚めないと言う業の深い生き方になってしまっている。まぁ、彼女の一つもできればいそいそと出かけていくのだろうけれども、自分に関することは出来るだけやりたくないと言う、生来の面倒くさがり屋な性格がどうにもこうにも発揮されてしまい、気になる女性がいようとも「眠い」一言で忘れてしまうという、都立高校の入学試験を同じ台詞を吐いてさぼった中学生の頃と同じ有様。 それでも深夜とは言えない時間には起きだして、O氏に約束のCD-ROMを届けに行ってK氏も交えて世間話。相変わらず後輩の方のOを虐めて、K氏を煽っただけで終わったのだけど。 帰ってからも何もすることがなく、紀伊国屋から届いた本(森博嗣やその他諸々)に軽く目を通し、先日誤ってWindow 98にWindows 2000 Proを上書きしてしまったAthlonマシンの修復をする。MS-6167は相変わらず癖が強く、どうもカード類がIRQを共有しようとして困る。シリパラ類は殺してあるのだからリソースは余っているのだが、この辺のBIOSの作りはMSIはどうも良くない。TYANからSolt Aマザーが出たら即買いなんだけどね。AMI BIOSだったならなお可。 一応そろそろ日付が変わる時間なのだが、今日もこれで終わりというわけではなく、明日の仕事の準備が残っている。準備自体は大したことはないのだが、その仕事は非常に面倒くさく、今から思うだけで憂鬱な事この上なし。確か、それ以外にもいくつか懸案を抱えているはずなのだが、一つはその仕事のために必要なPhotoshop5.5のアップグレードCDが届かず作業が棚上げ。もう一つはなんだか忘れてしまったので保留。ま、忙しいといってもこんなモンさ。
■第48話 1999/11/18 疲れた…
■第47話 1999/10/20 思い出
僕には思い出がない。別に、記憶喪失で子供時代の記憶が無いという訳ではなく、郷愁を誘う人の記憶が希薄なんだ。田舎の名古屋には親戚や従兄弟はいるし、幼い頃のもう限りなく薄れているが様々な記憶がある。中学に上がるまで生活していた札幌は、自分にとって一番大切な場所だし、今でも帰りたいと思っている。だが、それとは違う。 大学生の時、友人たちと北海道旅行へ行った。旅行といっても、友人の一人の家が札幌市内にアパートを持っており、それを自由に使えるというので予定も立てずに、ブラッと出かけて行っただけ。実際、観光らしい観光といえば、小樽の裕次郎記念館へ行ったくらいで、8月なのに肌寒いこともあって、とにかくダラダラと過ごしていた。 そのうちの1日、思い立って自分が暮らしていた街まで出かけてみることにした。本当は一人で生きたかったのだが、暇を持て余した友人たちもついてきてしまったのが、少々不満ではあったのだが。100万都市札幌とは言え、東京に比べるとやはり小さな街で、10年前の記憶を頼りにレンタカーを運転すると、いとも簡単にたどり着けた。そのころ住んでいたアパート、遊び回った公園、通った学校。何もかも記憶通りの形だったが、明らかに何か違う。幼い頃はあんなに賑やかに見えた街が、東京に目が慣れたためかとても寂しく見えた。 小学生の頃の悪友たちとも、いつしか年賀状のやりとりすら無くなり、あれだけ仲の良かった幼なじみたちの消息すら知らない。東京で暮らしているときには思い出すことすらほとんど無かったのに、自分の目でこの街を見ると、突然気持ちあふれてきて、堪らなくなった。友人たちと一緒でなければ泣いていたかもしれない。 しかし、このとき泣きたくなったのは、それだけではない。あのころの幼い友達が、今どこにいるのか知らない。会おうと思っても会えない現実が悲しくて仕方がなかった。街はそのままでも、あの頃の人たちは誰一人いない。いたとしても、すぐに会えない、会いに行っても自分を忘れているかもしれない。そう思うと、記憶を頼りに旧友たちの家を訪ね歩く元気もなくなっていった。だから、僕には思い出がない。楽しかった記憶はあっても、懐かしさを共有できる人たちがいない。 やまだないとの初期のコミックス「42℃物語」は、ストーリーはありふれた上京物語で、ドラマ「北の国から」で純が東京に出ていく話しを想像してもらえれば、それほど違いはない。そして「42℃物語」に出てくる郷愁は、現実には存在しないモノだ。みんなが戻ってくる夏祭り、懐かしい幼なじみ、だんだん女になっていくあの娘。そう、すべてがステレオタイプで、幾度となく繰り返されてきた物語。実際には存在しないモノ。 誰もが、何処にもないことを知っている。でも、この物語はあまりにも強く、ある年代以上の人間は逆らえない。これを出されると、僕なんかは無条件で降参してしまう。初期のやまだないとの作品は、形こそ違えど常にこの「物語」を描いていた。残念ながら、最近のやまだないとは、意識的にかこういった「物語」を描くことはもうない。だから僕は、今でも同質の「物語」求めて、他の作家の作品へと向かう。 この傾向が、自分にとって逃避なのはわかっている。でも同時に、この物語がないと自分がダメになりそうな気がするのも確かだ。現実は厳しい。だから物語の世界だけでも気持ちの良いモノを求めるのは、間違いじゃないと思う。
■第46話 1999/10/19 ワタシが言う必要はないんだけど… 色々書きたいことはあるのだが、何はさておき今回はちょっとマジに。一応、学生時代に4分の1くらい、この分野に足を突っ込んでいた身分としては言っておきたい。 今回の事故が、今後の日本の原子力政策に多大な影響を及ぼすことは想像に難くない。あらかじめ言っておくと、私自身は基本的に原子力発電に賛成だし、今後も核融合、分裂を問わず政府は実験に金を出し続けるべきだと思っている。だが、もう1点ハッキリさせておくと、今の原子力発電には反対だ。 理由は簡単。今の原子力関連の設備に携わる人間の意識が、あまりにもズサンだからだ。何より原子力に関する正確な知識を、きちんと収得していない人間が意外にも多い。 日本の教育では理系の、それも物理学や化学関連に進まない限り、原子力に関する正確な知識と本当の怖さをきちんと教えられることがない。イヤ、進んだとしても自ら積極的に学ぼうとしない限り、被爆に関してなどはほとんど知ることがないのだ。文系に関しては言わずもがな、ニュースを見ていても放射能、放射線、放射性物質などを混同して使用している例が多いことからも、それはよくわかる。 日本における一般的な原子力に関する教育といったら、「広島、長崎」から始まる「核は危ない、怖い」の一点張りに終始し、核融合や核分裂の正確な知識や、被爆の危険性とそのプロセスなどが、きちんと教えられることは、まずない。これらのことは、日本のエネルギー政策を左右する原子力発電の是非を判断するためには最低限は知っていなければならないし、知らなければとうてい正確な判断など出来るはずがないのにだ。 だが実際には、原子力関連の仕事に就くことになる人間ですら、「核は怖い、ウランは危ない」といった程度の抽象的な認識しか持たされずに、それらの仕事に携わることになる。そして、核物質を扱うのが日常になってしまうと抽象的な恐怖は薄れ、原子力の怖さをいとも簡単に忘れてしまう。つまり、今回の事故は日本の原子力教育がもたらした当然の帰結なのだ。 現在の原子力政策を継続するにしても破棄するにしても、それを判断するための正しい知識を教育の場で教えて行くべきだ。そろそろ日本の原子力教育は、「広島、長崎のある国に住んでいるから」ではなく「原子力に頼らざるえない資源の少ない国に住んでいるから」という積極的な方向へ移行すべきだと思うのだが。
■第45話 1999/10/18 空・3
'99/10/18
■第44話 1999/9/20 空・2
■第43話 1999/9/6 空・1
■第42話 1999/7/6 もろく、はかなきは… 新年とともに性根を入れ替えて、毎日とは言わないが毎週の更新を誓うも、やはり今年も去年と同じ事を繰り返してしまった。忙しいのを良いわけにするのは簡単で、実際に更新ができないほど忙しい時期はあるのだけど、忙しい期間を過ぎてからも更新をさぼっていたのは、ひとえにオノレの怠慢と、腐った性格のなせる所存だな。あえて言い訳をさせてもらうと、今の仕事を始めた2年前(1997年)ほど、たかが20と数年の自分の人生において激動の年はなかったと思っていたが、今年の上半期で既にそれを上回る出来事に遭遇したのは、やはり世紀末だからなのだろうか。 このページの行進が止まってからの約4ヶ月間は、仕事以外で文章をほとんど書いておらず、その後遺症かいわゆる駄文というかバカ文が書けなくなってしまった。それでも何人かの友人にはメールは書いていたのだが、5月に自分のモチベーションの根幹に関わる言葉を吐き出してしまった後は、全くの抜け殻になってしまっていた。その抜け殻を埋めるために他人を利用し、傷つけ、さらに悪循環。結論は既に出ているのだから、とっとと決着をつければよいモノを、怖くてほったらかして見ないフリ。こういうところは学生の時から何一つ変わっちゃいない。自分でも一番イヤなところだが、この思考の癖は根が深く、たぶん一生抱えて行かなきゃならないのだろう。 明日からまた仕事も始まり、問題にも決着をつけなければならないのだから、せめて今日くらいは充分に眠って脳を休ませようか。 ■第41話 1999/2/9 とりあえずいろいろ 地獄のロードも終了し、何とか一息つける状態になった。ただでさえ仕事の詰まっている月末に、サーバの移行やら新しいコンテンツの立ち上げやら、やっかい事がたくさん舞い込んで、てんてこ舞いだった。とは言っても、大して時間があいているわけでもないので、チャッチャと本題に行こう。 秋葉原やUSの販社では、恒例となったIntelの最新CPUのフライング販売だが、Pentium IIIも当然のように行なわれた。その模様はこちらを見ていただくとして、不思議なのはこのフライング販売に対するIntelの態度だ。これまで秋葉原でのフライング販売に関して、Intelのコメントが正式、非公式に係わらず流れることはなかった。ショップや代理店レベルでの抗議はあったのだろうが、それが表に流れることはあまりない。それがC-NETで報道されたためもあるのだろうが、海外でのCPUのフライングにIntelが弱腰ながら抗議をしたようだ。(そういえばCPUのフライング販売を報道機関がリアルタイムで行なったもの、珍しいことだ。こんなコトをするのはインプレスくらいのモノだと思っていたが、C-NETが報じたものだから、国内の他の報道機関まで伝えていた。) 先に不思議だと言ったのは、これまでIntelはフライング販売が行なわれた事実を知りながらも、それに関しては「知らぬ存ぜぬ」と言う態度をとるのが普通だったからだ。それを今回に関しては、かんたんながらスポークスマンがコメントを出した。その内容はともかく、わざわざコメントを出したと言うことから推察するに、今回のフライングは半ばIntel公認のモノだという邪推も成り立つ。つまり、Pentium IIIの直前に出すといわれているAMDのSharptoothへの牽制ではないのだろうか? 実際、いくつかの情報を総合するとSharptoothの発表は2月22日か23日というのが本決まりのようだ。まさにPentium IIIのX-Day、26日の目と鼻の先だ。まあ、まるで子供の喧嘩のような推理だが、企業の動きなんかそんなモノだったりする。 今回のPentium IIIのフライング販売では、気になることがもう一つある。と言うよりも、こちらの方が重大かもしれない。Pentium IIIのVcore(コア電圧)に関してだ。現在秋葉原で販売されているPentium IIIのVcoreは2.0Vだ。しかし、Tom'sをはじめとする海外のサイトの情報を総合すると、Pentium IIIの本当のVcoreは1.8Vらしい。こちらの記事によるとIntel.UKが日本で販売されたPentium IIIのシリアルを見て「存在しないもの」だとコメントしたという。これは結構、衝撃的だ。 手持ちの情報だけで、秋葉原で販売されたCPUのリマークの可能性を考えてみよう。Pentium IIIのコアに使用されているOLGAというダイのパッケージは、Pentium II 450やXeonから採用されたものだ。またSECC2という形態は、現在はPentium II 350にしか流通していない。この2つから推理すると、Pentium IIから形状だけでも似せたPentium IIIを作り出すことは不可能だ。SECCとSECC2ではカートリッジ内部の基板の形状がわずかに異なり、Pentium II 350MHzはコアはOLGAではないという、2点からこのことは立証できる。では、形状的には明らかにPentium IIIであるはずの秋葉原産の「Pentium III」の正体はいったい何なのだろうか? KNIに対応しているかを調べれば早いのだが、ユーザーレベルではまだこれは不可能だ。(KNIのインストラクションは現在は未公開だから) ワタシは、Intelが裏でこっそりと何かイヤらしいコトを企んでいるのではないかと睨んでいる。なにしろIntelは、OEM向けでしか(つまりバルクでしか)出荷していないはずのSL2WMロットのCeleron 300Aを、最近になってリテールパッケージとしても出荷するような会社だ。何をやっても不思議ではない。
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