物の価値というコンテクストに依存する量を一般化、抽象化することを可能にした
物の価値を決定していたコンテクストは、時と場所と人によって変化していた。相対による物々交換経済は、それ以外の取引方法が不可能だった。それを「貨幣」は、たったひとつのスカラーとして扱うことで、普遍性を獲得した。
抽象化しても、時間だけはすべての人間にとって等しく流れるものだから、それのみをコンテクストとして取り込むことで、利子や割引率などが生まれた。
貨幣自体にベクトルはなくても、各々の商品とその具体的なニーズにはベクトルがある。それを合成することで、ものの市場価値が決まる。
物の価値を抽象化した貨幣は、ものの取引を効率化するためのものだった。抽象化されつつも、実際の物とニーズにはベクトルがあり、市場価値はすべてのベクトル合成によって決まるとするなら、そのベクトルの小さな変化や差異を読み取ることで、利益が生まれる。それが裁定取引。
だが、抽象化された貨幣であっても、時間というコンテクストをはぎ取ることは不可能だったように、国や地域というコンテクストが残った。また、証券や債券という、貨幣に近い価値を持ちながら、貨幣よりもコンテクストを持ったものを生み出すことで、価値を生み出したり操作したりする手法も生まれる。
抽象的なものの操作は人間だからこそ可能なことだが、抽象概念の操作は複雑で理解しにくい。その微妙な理解の差自体もまた、価値の源泉となっている。
それに逆らうかのように、貨幣に強制的にコンテクストを付与することで、価値創造可能な領域を絞って、貨幣操作自体が暴走しないことを目指したのが地域通貨。ただ、実際には価値の操作の領域制限と創造のインセンティブとの設計が、困難であるし、抽象化可能な価値以外の価値を「貨幣」に与えることになるため、その「抽象化不可能な価値」を共有できる範囲内でしか成立できない。
だが、貨幣にもまだコンテクストが残っているということは、さらなる抽象化が可能であると言うことだ。物の価値を徹底的に抽象化していくと、残るのは純粋な量を示すデータでしかなくなる。
物の価値を示す貨幣は、結局あらゆる人と価値を共有するために、バラバラのベクトルというコンテクストを合成したように、「コンテクスト」というベクトルによって量が決定されている。
ならば、コンテクストをすべて把握することができれば、物の価値を性格に把握できる。コンテクストが物の価値を決定するなら、コンテクストそのものが価値であると言える。
コンテクストとは、すなわちデータ。ある物に係わるすべての要因を示すデータ。複雑で多様で大量な要因。従来の経済学や物理学は、複雑な環境要因のパラメータを簡略化することで、公式化したが、数学的手法と機械的計算力の獲得で、環境余韻をざっとデジタル化して扱うことが可能になってきた。
つまり、統計力学的手法がより精度を増したように、経済学的社会学的な分析手法が統計学的により精度を増していく。
データが物の価値を決める。ならば大量に勝つ迅速にデータを集めて処理できれば、それ自体が市場における強さになる。それが今のビジネスで起きている変化だ。