■2002-10-06(日) [長年日記]
▼ 日記
寝たり起きたりを繰り返しながら、チョコチョコと記事をアップデート。昼飯は玄で玄菜麺と屋台でドネルサンド。午後10時に原稿完成。
校正待ちで時間が空いてしまったので、買った本を読んだり、考えをまとめたり。ようやく自分の立ち位置がはっきりしてきた。
0時過ぎに更新終了。ギリギリで終電に駆け込むが、西武線は保谷止まりで終了。仕方なく清瀬まで歩いていると、突然の大雨。何とかひばりヶ丘まで辿り着き、タクシーで帰宅。
▼ システムとシステムの複雑さ
社会は重層的なシステムで作られている。行政、企業、地域、学校といった人的システムだけでなく、鉄道、電気、放送、流通といったテクノロジーに依存したシステムもそう。そして、現代社会はそのシステムに対して、皆が信頼を委譲することで成り立っている。システムに携わる人や、またはシステムそのものの原理を知らなくても「きちんとやってくれるだろう」という信任を、意識的にか無意識にかかわらず行なうことで成り立っている。昨今の食品スキャンダルがああも社会的なヒステリーを引き起こしたのは、その信任を裏切ったからこそだ。
では、そういったスキャンダルで騒ぐ人と、それほど騒がない人がいる。その違いは何か。それはたぶんシステムが見えているか見えていないかの違い。そのシステムをぼんやりとした相対としてしか認識せず、ブラックボックスとしてしか見えていない人は、そのシステムにトラブルが起きたとき、システム全体に対して不信感を抱かざる得ない。対して、システムが見えていれば、どの部分が悪いのか、どう対処すればよいのかがわかる。システムのトラブルというものは、システム全体が悪いという例もまれにあるが、たいていの場合はどこか部分の問題であることが多い。そしてシステムの細部を知らなくとも、全体像を掴んでいればどの辺が悪いのかはなんとなくわかるものだ。
世の中はとにかく複雑で、一つの事件をとっても、原因は決して単純でなく、見る視点によって様々な要因が絡み合い、単純な理解を拒む。事象のある一面で切り取って、シンプルな断面を見せることで理解を促すことは決して間違いでない。だが、その一面からのみで判断を行なっても、多分に偏った見方になるだけだ。幾層にも折り重なったレイヤーを一人の人間が読み解くには、膨大な労力を必要とする。それは一人の人間では決してシステムを動かすことができないのと同様だ。
IT化が進むことで、社会のシステムは一段と判りづらくなっている。ただでさえ見えないシステムが、電子化されることで人々からより現実感を奪い、システムに対して距離を生んでいる。そして、気がついたときには決定的に何かが変化し、後戻りができなくなっている。それだけのインパクトのあることなのに、その中心的なシステムに対して皆の知識が欠如し、コンセンサスさえ存在していないのだ。一番の問題はシステムそのものよりも、そんな今の状況。だから例えIT化、電子化には賛成であったとしても、黙ったままでいて良いわけではない。