■2008-09-01(月) メディアと大衆 [長年日記]
▼ R25のウェブサイトは商業メディアとして成り立つのか?
よく「大衆」というとネガティブなイメージで使われることが多いが、実際のところ「大衆」にはほとんどすべての人が含まれていると思う。
世の中のあらゆることに興味があって、それらすべてのことを詳しく知っている人というのは、ほとんどいない。逆に、あらゆることに興味がなくて、まったく何も知らない人というのもほとんどいない。みんな、何かしら興味を持つものがあり、それに関してはそれなりの知識を持っている。そして、それ以外のことには興味がなく、知らない。
したがって、世間一般で言う大衆とは、人々の「知っている部分」の集合ではなく、「知らない部分」の和集合。その和集合全体を見て「人は物を知らない」と言うのは簡単だけど、個別に見ていけば何かしら「詳しいこと」「好きなこと」「譲れないこと」は持っているはず。
そもそもこの考えは、R25の読者層について考えたときに出てきたもの。R25の想定読者は「メディア弱者のM1層」だという。新聞・雑誌は買わず、主たる情報源はTVとケータイ。ネットは調べ物をする程度、という人たちだ。そのR25のブランドでのウェブメディアにはどのくらいの可能性があるのだろうか。
雑誌は本来、セグメントされたターゲットに対して説得的・理性的なアプローチが可能なメディア。しかし、R25の場合は、総合誌的なフリーペーパーであり、かつ交通機関やコンビニを中心に配布しているので、新聞のようにマスターゲットに近い。
人はナゼR25を読むのか。一つには暇つぶし。もう一つには安心感を得るためと仮定してみる。これまでの新聞やTVの役割の一つに「みんなが見ているモノを自分も見ている」という物がある。つまり、自分が社会にコミットしているという安心感。
ヘーゲルとコジェーブによれば、歴史の駆動要因は、人が持つ「自分の価値を他人に認めさせようとする欲望」だと言う。この欲望は「優越願望」と「対等願望」の2つに分けられる。優越願望は、人より優れいていると思える関係や状況を維持しようとする気持ち。対等願望は、人より劣っている自分を対等に引き上げたいという気持ち。そしてR25は、M1層の対等願望にフィットしたといえる。
つまり、R25が成功した要因の一つは、これまで社会にコミットしている感覚が薄かったそうに対して、社会への参加艦を与えたことにあるのではないか。これを読むことで、周りと対等になれるという期待。
ただし、R25の読者はそういった「物知らぬ大衆」ではなく、「何か知っている大衆」だ。現在のような市場主体性においては常に競争が発生し、優劣が決定する。つまり、R25を読んでいながら、R25の想定読者との差異を確認することによって優越願望を満たしている層も存在する。そういった人たちに対してなら「R25のウェブサイト」が受け入れられるのかもしれない。